信じること。
友。
愛情。
笑顔。
誰かを大切に想うこと。
そんなもの、何の役に立つ?
月が出ていた。
星の瞬くこの時間、身にまとう空気は冷たい。
すでに建物のほとんどの電灯は切られ、テラスに出た者が頼りにできるのはわずかな月明かりだけだ。
その暗がりの中、彼女は空を見上げていた。
「何してやがるんですか、グリ・ムリ・ア様?」
声をかけたが、彼女が動く様子はない。
聞こえなかったならそれでもいいかとその場から立ち去ろうとした時、
「アダラパタか」
グリ・ムリ・アが答えた。
「月を、見ていた」
「そのよーですね」
月を見ていたことくらい、ちらりと横目で見ただけでも分かる。
そんな回答を求めたわけではない。
「ボクにはどーでもいいんですが、風邪をひきやがっても“女神”の椅子には座ってていただきますからね」
「分かっている。飾りは飾りらしくするさ」
自嘲交じりの声で彼女は言う。嘲いたければ嘲えばいい。
これといってこちらからの用はない。声をかけたのは、ただ何となくだ。
アダラパタは肩をすくめただけで元々歩いていた方向に歩き出そうとする。
「分かっているなら結構です。じゃ、ボクはもう眠らせていただきますよ。明日の朝早くからメモリアに発たなきゃいけないんですからねえ」
「……また人がたくさん死ぬのだろうな」
が、予想外の言葉を聞いてその歩みを止めた。
「何を言ってやがるんですか、今更」
月丸・太陽丸の2人が5大石を手に入れたときに、すでに人は何人も死んだというのに。
かまわないと言ったはずだ。
この世界の人間がどうなろうと。
何人死のうと。
“私には関係ない”
そう、言ったのではなかったか。
実際、関係ないことだ。
誰がどこで飢えようと、
誰がどこで怪我をしようと、
誰がどこで焼死しようと、
誰がどこでのたれ死のうと、
関係ない。変わらない困らない。
自分の周りに変化はない。
強いて変化を挙げるなら、必要なものが手元にやってくることくらいだろうか。
人が減れば食糧問題も環境問題も一気に解決。
益はあっても害などない。
大体、自分たちが手を下さなかったとしても、毎日人は死んでいるのだ。
少しくらい人数が増えたところで何が変わろう。
「今更、か。確かにそうだな。ずっとずっと昔から、100年も前から、戻れない道に来たのだから。――戻る気など、ないのだから」
ふん、とアダラパタは鼻を鳴らす。
くだらない。
つまらない。
くだらなすぎてつまらなすぎて、笑える。
感傷か? そんなもの何の役に立つ。
「後悔や懺悔に意味はありませんよ。ま、貴様の勝手ですがね」
意味のないことなのに。
どうして後ろを振り返る者がこんなにも多いのだろうか。
「後悔? 後悔などしやしないさ。例えこの道の先で死神が待っているのだとしても、私は後悔するつもりはない。何度選択権を与えられたとしても、私は何度でもこの選択をする」
「だったらこんな所で油売ってないで、何かしやがったらどうですか」
「…………」
こちらを一瞥しただけで、グリ・ムリ・アは何も言わない。
一言も発しないまま、アダラパタの横を通り過ぎて廊下の闇の中へと消えていく。
「やれやれ」
アダラパタは肩をすくめて、それから月を見上げた。
満月までまだ間がある半月だ。
“死神が待っているのだとしても、後悔するつもりはない”?
「ボクはその死神ですら、味方につけてみせますよ」
気配の失せた真っ暗な闇を見つめながら、アダラパタはぽつりとそう呟いた。
2004.5.21 // まったく、何を言ってやがるんだか。