「どうもありがとうございました」
礼を述べ、リュシカは部屋を後にした。カラン、カラン、と足音を立てながら玄関に向かう。
着たことのない服装に歩き辛さを感じる。筒型の裾で歩幅は広げられないし、胸の下にきつく巻いた布も苦しいものがある。
浴衣というものを見せてもらった時は可愛いと思っただけで、まさか着ることになろうとは。
白地に水浅葱や桜色などの薄い色でアジサイが描かれている、綿の布。葉に浮いた水滴やが花びらの様子が特に気に入っていたりする。
旅館の女将に貸してもらった物なので、転んで汚さないように気をつけなければ。
廊下をゆっくり歩ききり、戸口から外を覗くと、ティトォが月を見上げていた。
飾りとして置かれている、大きめの石に腰を下ろして夜空を眺めるその姿は、完成された一枚の絵のようで、思わずほうっとなる。
ぼやけた月の光と、古風な庭、佇む一人の少年。
ティトォは気配に気付いたのか、ゆっくりとリュシカの方を向き、そのまま静止した。目が合って、一瞬間が開く。
リュシカははっとして、慌てて笑顔を作った。
「お待たせしてすみませんでした」
「え――リュシカ?」
くりくりとした目をさらに丸くして彼は立ち上がった。その様子を見る限り、分かっていなかったらしい。そんなに違うだろうかと、下ろした髪に触れた。それともおかしな格好だっただろうか。
「ティトォさん」
不安になって聞いてみる。
「あの、変でしたか……?」
「そんなことないと思うけど?」
あっさりと返ってきた返事。たった、一言。
本当は少し――少しだけだけれど――何か言葉を期待していただけに、拍子抜けしてしまった。着替えを手伝ってくれた人達には褒めてもらったのだけれど。
(何も言ってくれないのは、やっぱり似合ってないからなのかなぁ)
「じゃ、行こうか」
そう言って歩き出すティトォの背中を追いながら、リュシかは軽くため息をついた。
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神社は人で溢れかえっていた。右を向いても左を向いても、前後にも、人、ひと、ヒト。上下には――さすがにいないが、自由に歩くのもままならないほどの群集が、その日のために集っていた。
「ふわあ、すごいですねえ」
思わず口をついて出た言葉に、ティトォは見とれるくらいの笑顔で返してくれる。
「お祭りだしね。町の外からも結構来てるんじゃないかな」
それもそうかと周りを見回す。知っている顔があるわけではもちろんないが、同じく浴衣を着た人たちや親子連れなど、みんな楽しそうにして、思わず顔がほころんだ。
自分達も楽しまなければ。
横を歩いていった少年達が、金魚の入った袋を提げていた。透明の袋の中には十分な水と水草が1つと、赤と黒の魚が1匹ずつ。
「ティトォさん、あたし金魚すくいがしたいです」
人の頭の向こうに看板が見えた。赤地の布に白で「金魚すくい」とある。合間から下側をうかがうと、数人の子供達が赤い魚と奮闘している。
そちらへ行こうとすると、手首をつかんで引き止められた。
「金魚すくいだけは止めておきなよ。旅には連れて行けないんだから」
「えー」
口を尖らせて振り返ると、ティトォはやれやれといった顔つきで、人の流れの先に視線を向けた。
「ほら、スーパーボールすくいがあるからあっちにしよう」
「でもー」
やりたいのは金魚すくいなのである。流れているだけの玉ではなく、それぞれ意思を持った魚をすくい上げるほうが楽しいに決まっている。
不服だったがティトォが歩き出したので、仕方なく後に続いた。逆側から歩いてきた人とすれ違いざまに肩が当たって「すみません」と振り返る。すると違う人とぶつかって、また頭を下げる。くり返すうちにティトォはかなり先にいた。
「迷子にならないでよ」
ようやく追いついたリュシカに彼は言った。迷子という言葉が子供じみて聞こえて、少しムッとする。
「小さい子じゃないんだから、大丈夫ですょ」
「……だといいけどね」
「あっどういう意味ですか」
それでは自分が迷子になりそうな子供みたいではないか。
ティトォは返事もせずに、店主にお金を渡した。意味あり気に二人を見比べ、すくうための輪と入れ物をティトォに渡す。ティトォは流すようにそれをこちらに回した。
「ティトォさんはやらないんですか?」
「ぼくはいいよ。見てるだけで」
せっかくだから二人でやりたかったのだが。
リュシカは袖の裾を水につけないよう気をつけながらしゃがみこみ、水面を流れるボールたちとにらみ合う。
右から左に、次々と流れていく。どのタイミングで輪を動かせば破らずに取れるのだろうか。
(う……流れるの速い……)
思ったよりも流れは急だった。思いっきり速いというわけではないが、ゆっくりではない。狙いを定めぬうちに、ボールははるか向こうに行っている。
「いざ」
気合をいれ、右手を適当な所に輪を入れて、入れた瞬間に水面の入れ物に向けて引き上げる。輪が何かに当たった感触はあった。
けれども、ボールは紙を突き破って、再び水面上を流れていった。
「うう……」
「残念だったね」
ティトォの声が苦笑気味に聞こえた。
何だか悔しい。
「もう一回!」
「はいはい」
再チャレンジ。
気合を入れなおして水面と向かい合う。そう、スピードが勝負だ。ぱっと入れてぱっと出す。速くやれば破れてしまってもボールは取れる。と、思う。
ちゃぷん、と水音がした。
「……」
結果はやはり、リュシカの負けだった。紙が丁度真ん中で破れてしまって使い物にならない。いや、残った右端を使えば何とか。
しかし次に輪が空気中に出てくる時にはプラスチックだけが光っていた。
「惜しいねえ。ほれ、オマケだ持っていけ」
店主はボールの入った袋を差し出して言った。紫と白のマーブルや、黄色、赤と白、ボールが3つ入っている。
「わあ、ありがとうございます!」
「どういたしまして」
ティトォが「やっていかないかい」と言われたが、彼はやんわりと断った。
その後はひたすら歩きながら食べた。
まずクレープ。
カキ氷。
フライドポテト。
から揚げ。
ベビーカステラ。
りんごあめ。
食事は終えていたが、当然この手のものは別腹だ。美味しければいくらでも入る。
「ねーねー、この後の花火大会見に行かない?」
通りの向こう側で声がした。
「何時からだっけ?」
「9時だよ。地元の子に穴場教えてもらったんだー」
見ればくじ屋の前で賞品を見ている2人組だった。二人とも髪を結い、浴衣を着ていた。浴衣と帯の色が同じ所を見ると、合わせたのかもしれない。二人はリュシカと同じ方向に歩き出して会話を続ける。
「穴場?」
「そうそう。こっからぁ、会場と逆側に真っ直ぐ行くのー。そしたら川原があってー、広いからよく見えるんだってー」
「へー」
花火か。
そういえば、ムジナの穴でも祭りの最後は花火で閉めていた覚えがある。貧乏だったので細々とではあったが、祭りの楽しみの一つだった。
行ってみたい。
「花火見に行きませんか、ティトォさん」
うきうきとした気分で振り返る。振り返ってから、動きが止まる。
先ほどまで横に並んでいたはずの少年の姿が見当たらない。
「ティトォさーん?」
見回してみるが姿はない。見知らぬ人々が通り過ぎていくだけで、見知った顔は見つけられなかった。
はぐれてしまったと、頭から血の気が引いていく。迷子にならないでと言われたばかりなのに、
「どうしよう……」
どこではぐれたのだろう。
りんご飴を食べきって、そのごみを捨てた時にはまだ一緒だった。だから、その後だ。話しながら歩いて、それから。
この人ごみの中で探し出すのはかなり難しい、ということはリュシカにだってわかる。
一旦旅館まで戻るべきだろうか?
立ち止まっていると、歩いてくる人とぶつかってしまい、すみませんと謝った。
「1人じゃ道も分かんないですょ……ティトォさん……」
心細くなって呟く。
周りの風景がリュシカを拒絶するように存在していた。
人の流れの中、ただ一人。
知らない土地。
知らないひと。
――怖い。
目元に、じわりと涙が浮かんだ。
泣くな。
どうにかして探すのだ。まずは見晴らしのいい場所を探してみよう。もしくは入り口のところで待っているのも良いかもしれない。
歩き出し、道を曲がろうとした、その時だった。
不意に手首をつかむものがあった。
「リュシカ!」
振り返ると、探し人の姿があった。ほうと息をついて破顔してみせる。
「ティトォさ……」
その笑顔に安心して、泣きそうになってしまった。それを押し隠そうと、わざと声を張り上げる。
「もうっ、どこ行ってたんですか!?」
「ジュースを買うって言ったんだけど……」
「……そんなの聞いてませんょ」
いつ言っていたのか。全く記憶にない。何かに気を取られていたのだろうか?
でも会えてよかった。見付からなかったら本気で旅館に帰れなくなるところだった。
「今何時くらいかな?」
「え? えーっと……」
ティトォが聞いたので、リュシカは視線を動かした。木々から右に視線を移すと、少し離れた所に公園があり、そこに時計が立っていた。
「8:50みたいですけど」
「明日も早いし戻ろっか」
そうですねと同意しかけて、時間が9時前だということにはたと気付く。
忘れかけていたが、そろそろ花火の時間だ。
「あのっ、ティトォさん。花火大会があるらしいんですけど行きませんか?」
「花火?」
ティトォは斜め上を見上げ、考えるような仕草をした。駄目だと言われたらどうしようと思いながらそれを見上げて答えを待つ。
しかし心配は必要なかったようで、ティトォはにこりと笑った。
「うん。折角だし行ってみようか」
良かった。
ティトォは来た方向にくるりと方向転換した。花火大会のある方向である。リュシカは慌てて服をつかむと、ティトォは振り返ってこちらを見た。
「あっちに地元の人しか知らない穴場があるらしいんですょ」
「穴場?」
「はいです。あっち側の川原なのですょ」
どこにあるのかは知らないが。
ともかくあるという方向に歩いていけば、そのうち着くだろう。
「んじゃ、行きますか」
ティトォはリュシカに手を差し出した。リュシカはティトォと手を見比べてから首を傾げる。
手?
ティトォは肩をすくめて笑ってみせた。
「また迷子になったら困るでしょ?」
一瞬何を言われたのかよく分からなかった。
けれどすぐその意図する所に気づいて嬉しくなる。
「はい!」
くすぐったい気持ちを感じながら、リュシカはその優しい手をとった。