忘れてもいいよ

「忘れてもいいよ」
 
月明かりが甲板に注ぐ中、彼は静かな笑みを浮かべながらそう言った。
唐突な言葉の意図を掴みかね、黙って視線を向けたテッドに、セリはもう一度にこやかに笑う。そして穏やかな声で、優しさを目に宿しながら、もう一度同じ言葉を繰り返す。辛いなら、全部忘れたっていいんだよ――と。
 
「この船にいる間だけでも、さ」
 
テッドは答えず船長から視線を外し、その動作で返事に代えた。
忘れられるはずがない。誰かの灯火が消える瞬間の耐え難い恐怖、たくさんの最期の言葉、目に焼き付いた表情。全て、一部の記憶は朧気にしか思い出せなくとも、その時胸を貫いた痛みだけは、頭の端にどれだけ追いやっても消えることなく残り続けている。忘れていいはずがない、自分と関わったことで喪われたものなのだから。覚えていることくらいしか贖罪の方法が思い付かないのだから。
 
「君が大切に思った人達は、同じ様に君を愛したと思うんだ。だから――」
 
煩い。
もう何も――言わないで、くれないか。
 
テッドが眉根を寄せたことに少年が気付かなかったはずはないだろうが、彼の言葉は止まらない。こちらの口は糸で縫い止められたように動かないというのに。
優しく体を撫でていくような彼の透明な声は、夜の静けさに緩やかに溶けていく。
 
「痛みばかりが残るなら、もう忘れてもいいよって、言ってくれるんじゃないのかな」
 
何も知らない癖に、勝手なことを言うな。
徐々にわいてきた怒りに身を任せるようにして睨みつけたら、セリは少し寂しげな微笑を返してきた。目を伏せ小さな息を一つついて、それから月明かりにきらめく波に視線を移す。
 
「ごめん、今の言葉は忘れてね。でもこれだけは覚えておいて。――いつか僕のことは、忘れていいよ」
 
矛盾したことを言う少年に、テッドは鼻を鳴らした。
それにたとえ誰を忘れても、彼のことだけは忘れられる気がしない。こんなにも鮮やかな印象を、忘れられるはずがないではないか。
 
 
 
 
 
 
 
2009/11/15