フリックは水を吸って重くなった服を引きずりながら風呂へと向かっていた。この雨の中サウスウインドウまで買い物に行かされ、見事にずぶぬれだ。早いところ風呂でこの冷え切った体を温めたかった。
入り口でテツと目が合うと、彼はなぜか慌ててそれを反らした。
「どうした?」
「い、いや、何でも……」
不思議に思ったが、まあいい。とりあえず今は風呂だ。寒い。
フリックは気にしないことにして男湯ののれんをくぐった。着替えを置いて、ぐっしょり濡れた服を脱ぐ。おお寒いと自分の体を抱きかかえるようにしながら、タオルを持って風呂の扉を開けた――ら、
そこには異世界が広がっていた。
どこまでも赤黒い世界。ただ暗く、闇く、血に染まった色がそこには広がっていた。ぱしゃんぱしゃんぱしゃん、と場違いな水音が鼓膜を叩く。生ぬるい風がフリックの体に巻き付いてくる。扉から這い出してきた白い煙が自分を絡め取ってくるような気がした。
そして天井から垂れ下がった、たくさんの白いものと黒いもの。顔のないてるてる坊主と、黒い人形。1つだけならまだ可愛いで済むのだが、いくつあるかも判らないほどの数の人形が一様に天井から首を吊っている様は異常だった。異形の形代に見えた。惨状でしかなかった。これは、何の儀式だろう。
白い、のっぺりとした顔が一斉に自分を見ている。
てるてる坊主に顔はない。けれどだからこそ、全てがこちらを向いているような気がした。
呪いの人形達はそれぞれ怖ろしい表情を浮かべ、ぶらりぶらりと首を吊って揺れていた。白い霧にじっとりと濡れ、涙を流しているようにも見える。後ずさることも中に入ることもできず、フリックは唖然とただ立ち尽くした。
ぱしゃんぱしゃんぱしゃん、と水音がする。
ざあざあざあと、雨の音が遠くに聞こえる。
それらは壁と天井と人形と壁と天井と人形とに反射してこもったように響く。
祈祷師の呪言のようにも、思えた。
全ての視線が自分に集まっている。
首が、顔が、人形が、体が、首が、首が顔が、顔が、首が首が顔が顔が顔が顔が顔が顔が首が首が首が首が顔が顔が顔が首が首が顔が顔が顔が顔が顔が顔が首が首が首が首が顔が顔が顔が首が首が顔が顔が顔が顔が顔が顔が首が首が首が首が顔が顔が顔が首が首が顔が顔が顔が顔が顔が顔が首が首が首が首が顔が顔が顔が首が首が顔が顔が顔が顔が顔が顔が首が首が首が首が顔が顔が顔が首が首が顔が顔が顔が顔が顔が顔が首が首が首が首が顔が顔が顔が――
こちらを、じっと見つめている。
――ぱしゃん。
規則正しく響いていた水音に混じって、別の音が聞こえた。
ぱしゃん、ぱしゃん。
だんだんこちらに近づいてくるそれは、誰かの足音だ。
ぱしゃん。
一歩近づく。
ぱしゃん。
また、一歩。
ぱしゃん。
もう、すぐ近くに――
ゆっくりとフリックは視線を下方に降ろす。
ひときわ大きなてるてる坊主の向こうには――小さな白い足が、見えた。
「ひっ……」
+
「ひぎゃああああああああああああ!!!!!」
壁の向こうから聞こえてきた悲鳴に、リュウはよっしゃあとガッツポーズをしながら爆笑した。適当に誰か見繕ってこようかと思ったらフリックが自分から来てくれたのだ。飛んで火にいる幸薄男。きっと自分の日ごろの行いがいいのだろう。
「あっはっはっは! いい叫び声だ!!」
「さすがフリックさんです!」
「……うん」
サキも楽しげに廊下の向こうの風呂場を覘く。カインは気の毒そうな目をしていたが、口元は少し笑っていた。テツはというと、やっぱり少し笑いながらそれをかみ殺していた。こうも期待通りの反応をしてくれるとは、さすが青い男だ。リュウは腕を組みながらうんうんと1人頷いた。
次はこの悲鳴に誘われて何人かが来てくれればいい。できれば他の人にも風呂の状態を見て欲しい。結構な音量だったから、少なくともこの階と上下くらいには聞こえたはずだ。もしかしたら外まで響いたかもしれない。しばらく待っているとざわざわと人が集まってくる。
「おい、今の何だ?」
「悲鳴がしたけど、どこから?」
「またどっかの赤いののイタズラじゃないの」
最後の発言はルックだ。おい余計なことを言うんじゃないと睨みつけたら、ばっちり目が合った。つられて何人かがこちらを向いたので、リュウたち3人は見事に見つかってしまう。
「おい今度は何やったんだ?」
そう聞いてくるシーナも結構楽しそうだ。まあ出てくる青い奴の感想を聞こうじゃないかと、にっこり笑ってリュウは風呂の前でフリックを待つことにした。
しかし、いつまで経っても出てこない。
さすがに5分10分と時間が過ぎてしまい、集まった面々は一様に顔を見合わせた。
「出て来ねえな?」
「気絶してるとか?」
「いやー、いくらなんでもそれはないんじゃ……」
さらに待ってみても変化無し。これはさすがにまずいだろうと、風呂の中の様子を見に行こうという話になった――そんな時。
「ねえ、これ何の騒ぎ?」
哀れな第二の犠牲者がそこを通りかかった。
長い銀の髪を後ろで三つ編みにし、頭に赤い布を巻いた、見た目だけは少年の人物だ。最近同盟軍に来た彼は、遠く南のファレナ女王国の王族でもある。
「おおいい所に来た!」
リュウは彼――フォルスの肩を満面の笑みで叩くと、その背を風呂場の方に向かって押した。
「え、何? 何なのさ?」
「いやちょっとフリックが中でのぼせたかもしれなくてな。ちょっと様子を見てきてくれ」
ちなみに本当に見てきて欲しいのは、フリックではなく風呂の装飾である。フリックとて数多の戦場を潜り抜けてきた男だ。たとえ風呂場で転んでいたにしても死ぬほどではあるまい。フォルスは大量のクエスチョンマークを浮かべてリュウを見る。
「なんでオレ?」
「ほら、お前黎明の紋章持ってるだろ。何かあったらそれで治してやってくれ」
「え、で、でもこんなに人いるし、サキだってカインさんだって治癒能力のある紋章つけてるし」
「いいから見て来いって!!」
その背中を蹴り飛ばし、リュウは無理矢理フォルスを男湯に入れた。「もー後で覚えててよね」と中から不満げな声が聞こえたが、そんなものこれからのわくわくに比べれば大した留意事項ではない。
さあ、どんな反応をしてくれるのだろうと、目を輝かせながらリュウは待った。
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