「 」
帰り際、アトリが誰かの名前を口にした。
別れの挨拶をすませ、トビラに向かって歩いていた彼が、ふと立ち止まってぽつりと呟いたのだ。
「……誰?」
決して聞き取れないわけではなかった、けれど全く知らない名前。
ラスはわずかに眉根を寄せると、首を右にひねった。
出会った人間の名はほとんど覚えているけれど、それに聞き覚えはない。
少し考えてみたけれど、思い当たる人間は知り合いにはいなかった。たぶん、知り合いの知り合いにも。
――それなのになぜだろう、自分はその人物を知っているような気がした。
聞いたことのある名前の、ような、気が。
「あの人の名前だよ」
振り返ったアトリが穏やかな笑みを浮かべながら答えをくれる。
彼が“あの人”と言う時、その言葉が指し示す人物は一人しかいない。
ラスはやっと合点がいって、ああと小さく頷いた。
銀の髪に空色の鎧。本が見せる幻に現れる、そしてアトリが探していた人物。
知っているような気がしたのは、だからか。
「突然どうしたんだ?」
アトリが彼の名をはっきり口にしたのは、これが初めてのような気がする。
いつも彼は“あの人”という言葉しか使わずに話していて、それが当たり前だったのに、どうして急に。
少しの沈黙のあと、アトリは笑顔のままで「君に、知っておいて欲しかったから」とそう答えてくる。
なぜとさらに問いを重ねたけれど、今度は答えをもらえなかった。
君は時々とても鋭いのに、時々とても鈍いよね、と苦笑するだけだ。
「ねえ、ラス。その名前を覚えていて」
光を放つ扉の前。
静かにそこに佇みながら、アトリはこちらをじっと見つめていた。
逆行で少し眩しい。けれど、表情が見えないほどでもない。
「本の中で見た彼のこと、姿、言葉、想い、覚悟――どうか、忘れないでほしいんだ。この戦いが終わっても、ずっと」
「あ、ああ……」
どうして、彼はそんなことを言うのだろう。
アトリの瞳はいつもと変わらず穏やかで、けれど同時にとても真剣だったから、なぜだか茶化すことも目をそらすことも出来なかった。
彼は何かを伝えようとしている。けれど、それを言葉にはしてくれない。
言ってくれればいいのに、言ってくれなければ分からないのに、彼がそれ以上を口にすることはなかった。
「約束だよ。――じゃあ、またね」
アトリはそう言って笑って、扉の向こうに消えていく。
彼の後姿を見送りながら考えてみたけれど、アトリの言葉の意味は分からなかった。
名前を。
姿を、言葉を。
覚えておくことに、どんな意味があるのだろう。
空色の鎧の人物には行方不明になった子供がいたらしい。だから自分を可愛がってくれたんだと、アトリはそう言っていた。
アトリはずいぶんその人に懐いていたようだし、きっと彼を覚えている人はアトリや自分たちくらいしかいないから、忘れないで、ということなのだろうか?
そうかな。
そうかも?
ラスは一人納得し、うんと一度頷いた。
心配しなくてもあんな強烈な印象を忘れはしない。彼が戦った相手も思いも自分達と変わらないのだ、忘れられるはずがないではないか。
「 」
今知ったばかりの名前を呟いてみる。
不思議とその名は心に、体に沁みわたるような気がした。
同時になぜだか胸の奥に小さな光が灯る。
一本のロウソクにつけたような、ほのかな温かい何か。
理由はわからなかったけれど、とてもこの名前が気に入った。
会ってみたかったなと少し思う。
幻の中の、アトリの話の中の人物に。
そうしたらきっと、自分はもっと彼が好きになれるような気がする。
アトリも一緒に、いろんな話をして、いろんなことを教えてもらえたらいい。
もちろんジェイルやマリカ、リウも呼ぶんだ。
なんだかとても楽しそうじゃないか。
実現しようのない夢を頭に描きながら、ラスは口元に笑みを広げた。
—
まさかそんな繋がり!とプレイをしていて思ったので、ちょっと書いてみました。
明言はされてないけど、情報を総合するとそういうことなんですよね…。
気付いてるのはアトリだけ。
はっきりした根拠がないから明言しないんだろうけど、でも、忘れないでってアトリは言うかなって思いました。気付かないなら、分からないならそれでもいい。でも、忘れないであげて欲しい、って。
アトリってあの人のこと「カッコよかった」とまで言っちゃうほど懐いてましたもんね!年齢を鑑みるに、二人目のお父さんっていう感じなんだろうか…。
主人公とアトリが愛しくてたまりません。あーなんでこんなに可愛いんだろうこの子たち!
09.1.5