母が教えてくれたせかい

大きな砂漠が出現してから、もう、ひと月。
最初は突然の喪失に泣き叫びもしたけれど、今はもう砂に埋もれた故郷を初めて目にした時ほど辛くはない。少なくとも兄は生きていてくれたし、あれからずっと城で傍にいてくれている。辛いのは自分だけではないし、やるべきことはたくさんある。いつまでも落ち込んではいられない。
けれどまだ時々、寝具に潜って目を閉じると闇の中に母の姿が浮かび上がる。

「……、」

母のことを考えていたら、不意に、星が見たくなった。
マナリルは兄らを起こさぬようそっと寝具を抜け、上着を羽織って屋上へと向かう。多くの仲間が眠りについているこの時間、忍び足で歩いても己の足音がやけに大きく感じられた。こんな姿、誰かに見られたら心配されてしまうかもしれない。誰にも会わないように気をつけながら、ようやく屋上へとたどり着いた。

漆黒の空に、散らばる小さな光。
大きな星もあれば、目をこらさなければ見つけられない弱いものもある。それぞれに名前や逸話、神話があって、星を繋げば星座になる。知っている星座を探しながら、マナリルは壁を背に腰を下ろした。

「……どうした? こんな夜中に」
「あ――」

階段を上ってくる、静かだけれど確かな足音。ほんの少しだけ困ったような表情をこちらに向けてきたのはラスだった。昼間は身に付けている鎧や武具はすべて外して、楽な格好でマナリルの方へと歩いてくる。

「あっ、あの、違うんです。眠れないとかそういうことじゃなくて、ただ、星が見たくて――」

つい言い訳のような声が口から出ていく。砂漠から戻ったあと、仲間たちがそれぞれ気を使ってくれているのはこちらが申し訳ないくらいはっきり感じている。心配させたいわけでも迷惑をかけたいわけでもない。もう大丈夫だって、そう言いたい。だから、夜中に部屋を抜け出した姿を見られるのはとてもきまりが悪かった。

「奇遇だな、オレもだ」

ラスはそう言って笑うと、隣いいかと断ってからマナリルの横に胡坐をかく。
自分もだなんて、きっと嘘だ。
そんなこと考えなくたって分かったけれど、ほんの少し苦笑しながら、マナリルは彼の優しい嘘をそのまま受け取っておくことにした。嘘が下手なひと。そう、心の中で呟く。

「星見て楽しい?」

少年の問いに、マナリルは「はい」と大きく頷いた。そして青く明るい1つの星を指し示すと、その名を呟く。

「花の季節はスピラが見えるんです。少し右の星がポリア、もっと向こうにミアトリス、他の近くの星を繋ぐと、ビルギナっていう星座になるんですよ。神話の中には、あの星座にまつわる女神様たちの素敵なお話がいっぱいあるんです」
「へえ」
「それから、その左側にあるのが――」

星のことなんて、人に話すのは初めてだ。幼いころ覚えた知識を引っ張り出しながら、マナリルは夢中で説明していく。星の名前、星座、それにまつわる無数の物語――。
隣から返ってくるのは頷きや一言くらいだったけれど、そんなことは気にもならなかった。特に好きな星座を説明し終え、一息ついたところで「詳しいなあ……」とラスが言った。一気に話しすぎたかもしれないとマナリルは少し気恥ずかしくなる。

「……小さい頃、お母様が教えてくださったんです」

それは、マナリルが書を読む力を得るより前のこと。母は魔道の研究に忙しい人だったけれど、時間が取れた時にはマナリルにいろいろなことを教えてくれた。星や神話だけではない。文字や、空を飛ぶ鳥のこと、雲の名前、天気の読み方、それから――。博識な母は王宮以外のさまざまな世界をマナリルに教えてくれた。家から出ることなんてほとんどなかったけれど、母がもたらしてくれる物語は、いつもマナリルに外を見せてくれたのだ。

書に触れて、自分に星の印が宿ってからは、そんな時間はなくなってしまったけれど。

力を得た日の母の目は今でも覚えている。驚きと、それ以外の何か。マナリルを見る目の色が変わった。……その日から母は、自分を抱きしめてくれなくなった。褒めてくれることも、何かを教えてくれることもなくなって、ただ、書を読むようにと。

母にとって自分はもう研究のための道具でしかないのだろうか、そんな不安を必死で打ち消しながら、母の助けになりたくて、前のように頭をなでて欲しくて、抱きしめて欲しくて、書を読んできた。
院を出るときの母の言葉がまだ忘れられずにいる。どうせもう長くないのだから連れてお行きなさい、と言った、その冷たい口調が。

「そっか」

不意に頭の上に何かが乗る。視線をラスの方に向けたら、彼がマナリルの上に手を乗せて笑っていた。優しくて明るくて、力強い微笑みに、沈んでいた心がほんの少し軽くなる。

「マナリルなら分かってるんじゃねえかって思うけど、言っていいか?」
「何をです?」
「最初はさ、マナリルに命削ってまで書を読ませて、連れていくときもどうでもよさそうな顔して、なんて奴だって思ったんだけどな。――でも、違ったんだって今なら思うよ」

マナリルの頭に手を乗せたまま、ほんの少しの間を置いて、ラスは言う。

「シャムスに書を渡したときさ、あの人『マナリルを頼みます』って言ったんだろ? 他のことは何にも言わないで、おまえのことだけ気にかけたんだよ」
「あ……」

視界がにじみそうになって、慌ててうつむいた。ぽん、ぽん、と優しく叩いてくれる手が無性に温かく感じて、手が震えそうになる。
――母は。
もうずっと長いこと、抱きしめてはくれなかったけれど。

「帝国を出る時も、あの人もしかしたら、わざと冷たく言ったのかもしれねえなって思うんだ。マナリルに、行ってくれ、って」

何も言葉を返せなかった。ただ一度、小さく頷くのが精いっぱいだった。
かもしれないとラスは言うけれど、きっと彼の言葉は間違っていない。マナリルが書を手にするまで母は優しかった。書の力を得てからは、マナリルに触れることをためらうようなそぶりを何度も見せた。
母は不器用な人だったのかもしれない。
帝国にいる時は分からなかったけれど、今ならそう思える。

だからさ、とラスが優しく言った。

「マナリル、おまえ、ちゃんと愛されてたよ」
「……っ」

目に映るものが何だか分からなくなるくらい世界が揺れて、ぽたりぽたりと雫がこぼれ落ちた。両手で口を押さえて嗚咽をこらえたけれど、抑えられきれなかった気持ちが音となって外にもれていく。「悪いな、余計なこと言ったかも」というラスの言葉に、マナリルは何度も首を振った。

最後に会ったあの日、母は自分を国から追い出すことで守ってくれたのだ。
帝国魔道院の地下で過ごしていた頃の、寂しさや悲しい気持が別のあたたかい何かで塗りつぶされる。抱きしめてはくれなくても、態度で示してはくれなくても、ちゃんと想ってはくれていたんだ。
皆が父母のことを忘れ、自分の母はクレイア様ということになってしまったけれど、自分の母はずっとリズランだ。自分は彼女の娘でいたい。星や、空や、動物や、母が教えてくれた世界は自分の中に広がっている。今までも、これから先も。自分がここに在るということは、彼女が確かに存在したという証でもある。

「ありがとう――ございます……っ」

涙の滲んだ声で絞り出したら「いいって」とラスは笑って、あやすように肩を抱いてくれた。ほんの少し戸惑ったけれど、兄よりも大きな腕に甘えることにして、マナリルは彼の胸にしがみつく。

そうしてただ、一人を想って涙を流した。

星の名前は創作です。…おとめ座のパロですけど。(おとめ座の明るい星はスピカ、ポリマ、ビンデミアトリクスというそうですね)おとめ座は「Virgin」なので、無理やり読みを変えてビルギナにしました。

リズラン様はきっと不器用な人だったんだと思います。マナリルに書を読ませることで研究を進めているから、どんな風に愛していいのか分らない。うまく接することができなくて、きっとそれが周りには冷たく映ったんだろうけれども、ちゃんと彼女なりにマナリルを愛していたと思うんです。
愛してたけれど、研究も進めなきゃいけなかったから、書を読ませていることが後ろめたくて冷たい態度をとらざるをえなかったんじゃないかなって思います。仕事中以外は優しく接する、なんて器用なことリズラン様にはできなかったんじゃないかなー。
必死で別の読み手を探してたと私は信じてます。出来るだけ早くマナリルを解放してあげたいと願ってて欲しい。
「どうせ長くないのだから連れてお行き」と淡々と言い放ったのはマナリルを自分の下から離すためで、それは死なせたくないという想いからで。シャムスに本を託してマナリルのことを頼んだのも、リズラン様なりにマナリルを守ろうとしたんだと思うんです。

「マナリルを頼みます」

というリズラン様のことばが私は忘れられそうにありません。
マナリルは聡い子だから、リズラン様の本意にも自分で気付いてくれるのかもしれないけど、主人公に「大丈夫、愛されてたよ」って言って欲しかったから、あえてこうしてみました。

リズラン様がマナリルを抱きしめる姿、見たかったなあ…。

08.01.23