0.捨てられない手紙
机の中に、拳三つ分ほどの小箱がある。
鍵もなければ特別な装飾もない、ごく普通の入れ物。何か適当な箱はないかとモアナに聞いたら、いらないからあげるという言葉と共に渡された、古びた傷だらけの木箱だ。何度も開閉したからか締め付けが緩くなっていて、落とせば蓋が外れて中身が散らばるし、全体的に黒く変色してもいる。
七十点くらいオマケして無理矢理よく言えば趣があり、正直に感想を述べるなら、ただのぼろ箱だ。
けれどそれは、ラスの机の中に大切に仕舞われていた。
その中身が、忘れることの出来ない、捨てることの出来ないものだったから。
「……、アトリ、元気でやってっかな」
ラスはぽつりと呟いて、右手で箱の蓋をつまみ上げた。大した抵抗もなくそれはするりと取れて、中身が顔を覗かせる。
そこに仕舞われているのは手紙だ。
ほんの少し日焼けした、けれど上品なしつらえは崩していない、十数通の封書。入っている順番は新旧バラバラで、前後関係の怪しいものもいくつかある。その中から適当に選び取って便箋を取り出せば、整った文字の並びが目に飛び込んできた。
『やあ、ラス。返事が遅れてごめんね。そっちはどう?』
何度も読み返した、一部は暗唱すら出来てしまう言葉たち。アトリらしい几帳面な文字が二枚の便箋に綴られている。彼の近況とこちらを案じる内容、どの手紙もほとんどそれが全てだ。いつもアトリの手紙には、短いわけでもないがかといって長いわけでもない、無駄のない綺麗な文章が並んでいる。
ラスとしてはほんの少し物足りないというか、彼の側の日常や仲間の話も聞いてみたいと思うのに、アトリはいつも必要外のことはほとんど話してくれない。一度ねだってはみたけれど、「……何を話せばいいのかな?」と困られてしまったから、あまり聞けないでいた。そんな所も彼らしいといえば彼らしい。
大抵は雑談などほとんど混じっていないのだけれど、この手紙には珍しく最後に別の言葉が続いていた。
『ねえ、この前見せてくれた星空を覚えてる? 結局聞けなかったけど、あの時流れた箒星に、君は何を願ったのかな』
覚えてるよ、と何度目になるか分からない呟きをそっと返す。あれから随分経つけれど、彼と見た星空の記憶は薄れることなく胸にある。むしろ時間が経つごとに鮮明になっていくような気さえする。
忘れていない。忘れられるはずが、ない。
『ぼくは覚えてるよ。あの日の願いも、交わした言葉も、全部覚えてる。今度またあの丘に連れて行ってくれると嬉しいな』
この手紙に自分は何と返したのだろう。〝今度時間作ってまた来いよ〟?
――貰った言葉は覚えているのに、言ったことはほとんど忘れてしまった。記憶なんてそんなものだろうか。物覚えが悪い自分としては、アトリの言葉を心に残しているだけでも上出来なのかもしれない。
最後まで読みきって、紙を傷つけないよう気をつけながら、ラスは手紙を再び元のように箱に仕舞い入れた。小箱の中にあるのは手紙だけではなく、形もなければ色もない、何にも染まることのない透き通った何か。
読み返すたび心に灯るあたたかい光、同時に胸を締め付けるような寂しさ。彼は元気でいるだろうか、今どうしているだろうか、疑問ばかりが頭に浮かぶ。
――会いたいな。
そんな言葉が浮かぶやいなや、ラスは己の両頬を、ぱしりと音を立ててはたいた。
「やめやめ! 依頼でも請けに行くかなー」
物思いに沈むなんて自分らしくない。今晩の食事は何だろうと無理矢理気分を浮上させながら、ラスは小箱の入った引き出しを勢いよく閉めた。そして部屋を飛び出して、モアナのいる一階へと階段を駆け下りる。
仲間達と挨拶を交わしていても、頭から離れないのは満天の星空。
流れた星。
彼がふわりと広げた優しい笑顔。
あの日願ったことだって、まだ忘れてなんかいない。
出来ることならもう一度、同じ空を見たいと願う。
About
主アト主本。あまり甘くありませんがカプと主張します。(A5/76P/オフ/09.8.23)
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