カナリア*

それはいつかの物語

「ログ! ログ大変だ!」
 
 
そう言ってヴルーがログの家の戸を叩いたのは、もう夜もふけ子供達が寝始める時間だった。街道から賑わいが消えたこの時刻、その声とノックはやけに大きく響いた。
ちょうど依頼品の仕上げをしていたログは、作りかけの人形を待たせて戸を開ける。中に迎え入れるなり、久しぶりの挨拶を飛ばしてヴルーはこちらの両肩を勢いよく掴んで揺さぶってきた。
 
「大変なんだよログ、助けてくれ!」
「お、おち、落ち着けヴルー!」
 
体を前後に何度も振られ、三半規管が悲鳴を上げる。頭を揺らされ平衡感覚を失いかけたログは、ヴルーが自分の手首を掴んで引いてきてもまるで抵抗できなかった。何もわからぬまま、夜の冷えた空気の中へと連れ出される。
家の前にはおそらくヴルーが乗ってきたと思われるウサギより速いカメが止まっていた。ヴルーはログの手を引いたままそれに乗り込み、まだログの足が半分外に出ているにも関わらずヴルーの一声でカメが発車した。
 
「る、ルート、戸締まりよろしく!」
 
ログには作りかけの人形にそう言い残すのが精一杯で、どうやら火急の件らしいとふらつく体を引きずるようにして車の上に体全てを収めた。ヴルーに揺さぶられた直後にカメの振動は少し辛い。体と心を落ち着かせるようにログは一度深呼吸をした。
車の進行方向を見ればそれは通り慣れた道で、どこに連れて行く気なのかと思っていたがどうやらこれはヴルーの家に向かっているらしい。少し落ち着いてからログは隣に座る友人に視線を向けた。
 
 
「何があったんだいヴルー、こんな時間に」
 
そう問えば、ヴルーはいたって真面目に答えてくる。
 
「それが、スバルが風邪で熱を出してね」
「……うん?」
 
 
予想していたより問題が小さくて、ログはきょとんと目を丸くした。血相を変えて来るから一体何事かと思ったら――もちろん子供の風邪もバカにはできないが、大の男が慌てふためいて助けてくれと言ってくる内容ではない。何より自分は医者ではない。
 
「それは私よりも医者を連れていくべきじゃないかい」
「医者には見せたよ。ちょうど医者を送った後で君の家に寄ったんだ」
「……? 私は何のために呼ばれたんだ?」
 
医者にもう診てもらったなら、貰った薬を飲ませてゆっくり寝かせるくらいしか周りのすることはないと思う。ヴルーの家にはニコやピクルスもいるはずだし、タオルで頭を冷やすにしても子供の求めに応じて水を与えるにしても、あの人形達に任せておけば問題はないだろう。彼らは睡眠を必要としないから、夜通しの看病も可能だ。
ログに子供を育てた経験はないし、風邪についてなどおそらくヴルーと同程度の知識しかない。だから自分にできることなど何もないはずだ。
ログの問いに、ヴルーは半分泣きそうになりながら答えた。
 
 
「誰かいないと不安じゃないか!」
「大の男が情けない!」
 
 
ということは何か、自分は話し相手として呼ばれたのだろうか? 他でもない友人の頼みだ、別にそれくらいは構わない――が、そういうことなら家の戸締まりと着替えを準備する時間くらいは与えて欲しかったなとログは肩を落とした。
ほどなくして屋敷に着いた二人を迎えてくれたのはニコだった。
 
「お帰りなさいませ。マスターもようこそお越しくださいました」
「うん、お邪魔するよ」
「スバルは?」
 
ニコの顔を見つけるなり、真っ先にヴルーはそう尋ねる。彼女は苦笑と取れなくもない微笑を広げ、「部屋でお休みです。ピクルスが側にいますわ」と教えてくれた。
そうかいと短く答え、ヴルーは足早に玄関ホールの階段を上っていく。子供部屋は2階だったなと考えながらログも彼を追いかけた。
急ぎ足でスバルの部屋の前まで向かったくせに、ヴルーは扉の前で立ち止まる。ログが追いつくまでの間、彼は黙って閉じられた扉を見つめていた。鍵でもかかっているのかと思ってドアノブに触れてみたが、大した力も要せずにそれは動く。隣に佇む男をちらりと見たが、色濃いサングラスに遮られその表情は伺い知れない。
 
 
「入らないのかい」
「……スバルに、“おまえが近くにいると熱が上がるから寄るな”と言われてね」
 
小さなため息を混じえながらヴルーが言うので、そういう事かとログは苦笑した。
 
「なら私が様子を見てこよう。でも、その言葉の意味は案外“風邪を移したくない”という意味かもしれないよ」
 
 
ウインクしながら言うと、ヴルーは少し寂しげに笑う。だといいんだけどねとその目が言っているような気がした。スバルは口は悪いが優しい子だ、そんな可能性だって大いにある。
部屋の扉をわずかに開いてみると、中の明かりは消えていて廊下の光が影のように床に落ちた。子供が1人で使うには広すぎるその部屋は、机とベッドと壁面を覆い尽くさんばかりの本棚を置いてもなお、がらんとして見える。照明を落としている分その印象はさらに強まっており、夜中にこんな部屋で目を覚ました子供の心細さはいかほどのものだろうと考えて、想像しても詮無いかと思って中断する。扉が開いたことに気付いたらしいピクルスがこちらに飛びついてきた。
 
「マスター、お久しぶりでございます」
「やあピクルス、元気かい? スバルはどう?」
「薬を飲んでぐっすりお休みです。熱はまだ下がりませんが……」
 
代わって差し上げたいと言うピクルスの頭をなでながら、ログはベッドに近付いた。その上では額に濡れタオルを乗せた少年が眠っている。暗がりの中でも頬が赤く染まっているのが分かった。
子供の顔に触れてみる。ふっくりとして柔らかいきめ細やかな肌は、確かに高い熱を帯びていた。熱はと尋ねたら、38度5分という返事が肩からある。ふむ、少し高い。
 
「ヴルー、起きないから入っておいで」
 
小声で言って、廊下に佇む友人に向け手招きをする。彼は自分とベッドを見比べた後、ためらいがちに中に足を踏み入れた。足音を殺しながらやってきた彼はスバルの枕元までゆっくりと進んで、ログと同じようにその紅色の頬に触れた。そのまま手を動かして、ゆっくり子供の髪を梳く。その目が愛おしむように細められたのを見てログは思った――ああ彼も、人の親なのだ。
 
それだけ子供が大事なら、もっと家に帰ってやればいいのにとログは思う。こんな広い屋敷で、親と離れ人形達だけと暮らすことがどれだけ寂しいか、彼に考えられない訳ではないだろうに。スバルの尖った言葉も淋しさの裏返しだ。
試しに言ってみたことはある。あちこち飛びまわっていないで、もっと子供と一緒にいられないのかと。せめて子供がもう少し成長するまで仕事を休んでいられるだけの金は十分あるだろうと。ログの言葉にヴルーは言った。そうだね、と。考えてはみると――けれど、現状は何も変わっていない。
 
理解できない訳ではない。アーティストは、創っていなければ生きられない生き物だ。
アーティストにとって、創るとは息をする事にも等しい。
いつでも何かを創らずにはいられない。作っていなければ、造り続けていなければ死んでしまう。創ることでしか生きていけない、人でありながらある種別の生き物なのだ。
特に7大アーティストと呼ばれる人間はその傾向が強い。逆に言うと、それだけ強くアートを愛し、呼吸するのと同じように絶えず創り続けてきたからこそ、7大アーティストと称されるまでになったのだ。そんな人間が子供のためとはいえ創ることを停止するなんて出来はしないのだろう。
 
けれど――とそこまで考えて、ログは首を振った。自分は一度ヴルーに言ったのだ。これ以上他人の家庭に口をはさむべきではない。自分にできるのは、たまに人形のメンテナンスがてら様子を見に来ることくらいだろう。
 
 
「折角だ、別の部屋で飲まないか?」
 
そのつもりで呼んだんだろうというスバルに視線を落としながらのログの言葉に、ヴルーは静かに首を振った。
 
「すまない、明日の朝早くに発たなくてはいけなくてね。私はノンアルコールでも構わないかな?」
「出発は延ばせないのか? スバルの熱が下がってからでも……」
「……、そうしたいところなんだけどね」
「そうか……」
 
 
仕方がない、とログはため息をつく。そういう事なら、スバルの熱が下がるまでは私が見ていようと。
ありがとう助かるよ――そう言ってヴルーはほっとしたように笑った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2010.1.14 // それくらいは構わない――でも、居てやるべきは私ではなく君なんだよ。

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