カナリア*

歌の光が風と踊る

 
 
夜空の心もとない明りだけが道を照らす夜中、スバルがふと目を覚ますと、微かな音楽が鼓膜を叩いているのに気がついた。
 
目覚めの時には見慣れぬ場所に、一瞬自分がどこにいるのか混乱しかけて、ああそうかとすぐに記憶がよみがえる。芸術の都を出、“トンだら速かったブタ”に乗って青天の都に向かっているのだ。
狭い車内ではアクロもデコもぐっすり眠っている。デコは大人しく角に身を預け椅子に収まっているが、その横のアクロは足が向かい側まで伸びてきている。今自分が目を覚ました理由も彼の足が当たったからだと合点がいって、スバルは軽くアクロの足を蹴飛ばした。しかし彼に起きる気配はまるでない。まったく、寝ている時までふてぶてしい奴だ。
 
車内には一人分の空間が生まれていて、ブタが動いているときの振動が無い。窓の外の景色は止まっていた。流れなくなった風景の代わりに、ガラスの向こうで小さな光の玉が動く。いくつもの言霊が連なって、一つの川のようになりながら夜空へと昇っているのだ。スバルにとってそれは地上の天の川のようにも見えた。
 
言霊は優しさや楽しさ、それから少しの淋しさを混ぜたような不思議な形状をしている。遠いその歌声は狭い車の中を静かな心地良さで満たし、しんと心を澄み渡らせる。無視してもう一度寝直してもよかったはずだが、スバルはなんとなく車の扉をそっと開けた。
夜の空気は冷たく、ひんやりとした風が頬をなでる。昼間の音が消え去っている分、普段は気にも留めない草木のざわめきが耳に届いた。
 
 
「……」
 
 
静かなその世界で、歌が踊っている。
蛍のように小さな輝きが風にあおられ広がりながらも一つの譜面を形成するかのように連なって、光が軽やかなダンスをしているようだった。仲間からはぐれたいくつかの輝きは、自由に辺りで遊んでいる。
 
ふわふわと、小さな灯りが揺れる。
軽いステップを踏むように。
 
芸術の都で見たあの光景とはまた違う美しさがそこには広がっていて、ほう――とスバルは感嘆の息を吐いた。
 
 
止まった車の裏側に回ると、風になびく桜色の髪が目に飛び込んでくる。夜の闇の中、青みを帯びたそれは軽やかに揺らめき、浮かぶ言霊の光に囲まれて別の世界に住まう何か神聖な生き物にも見えた。しばらく全ての音が意識から消えるほど、スバルはそれに見惚れてしまう。
はっと気付いて、スバルは慌てて首を振った。驚いただけだ絶対に見とれたわけではない――と自分に言い聞かせるように考えて、小さく己の頬を叩く。
歌い手はこちらに背を向けていて、観客の存在に気付いていない。スバルは出来るだけ音を立てないようにしながら、車に背を預け腕を組んだ。
 
 
ふと歌が途切れ、別の曲が始まる。
 
 
「Voi che sapete――」
 
 
流行りの歌など全くわからないスバルでも、ネネの紡ぎ出した音楽は知っていた。有名なオペラの一曲だ。もちろんオペラなど見たこともないが、さすがにこのアリアくらいは知っている。
“恋とはどんなものなのか、ご存じのあなたがた、さあ判断してください。僕がそれを心の中に抱いているかどうかを”
言霊が先ほどまでとは少し形状を変え、光に丸みと赤みが混じる。彼女が“誰”を思い浮かべながら歌っているのか、考えなくても判った。その相手は蹴っても起きないほどぐっすり眠っていて、全く聞いてもいないのだが。
 
「Quello ch’io provo, Vi ridiro――」
 
発音は決して完璧とは言えない。けれどそれを補って余りあるほど繊細で美しい声だった。言霊がきらきらと輝きながら空へ昇って行くのを、スバルは黙ってただじっと見つめていた。
言霊が踊る。
楽しげに、切なげに。
これまで歌になんてそれほどの興味は無かったけれど、こんな光景が見られるのなら、歌も悪くはない。
 
「Ch’ora e diletto, Ch’ora e ……、あら?」
 
不意に歌が途中で途切れ、ネネが首を傾げる。どうやら歌詞を忘れたらしいということに思い至り、スバルはやれやれとため息をついた。
 
 
 
「そこは“Ch’ora e martir.”だろう」
「!」
 
 
 
ネネが勢いよく振り返り、驚愕の表情を浮かべる。
 
「あっ、あんたいつからいたのよ!」
「ついさっきから。鈍いな」
「……っ!」
 
彼女が足早にこちらに向けて歩いてくる。何か言われるのかと思ったが、ネネは視線も合わせずにスバルの横を通り過ぎた。なんだ止めるのかと呟けば、うるさいわねと憎まれ口。まったく、歌声と顔はともかく中身はちっとも可愛くない。
だが、その歌を最後まで聞けないというのはいささか残念でもあった。
 
 
「……せっかく綺麗だったのに」
 
 
ぽつりと言い、背を車から離す。もう一度寝直すかと扉の方へ向かおうとして、ネネが立ち止まっていることに気がついた。彼女が半分だけ振り向いて、ちらりとこちらに視線を向ける。
 
「ほ、ほんとに……?」
 
その頬がうっすらと赤く染まっていることが暗がりでもわかって、心臓が一度強く鳴った。見上げてくるその目からなぜか逃れたくなって、スバルは視線を彼女から外す。はやる鼓動に、何だこれは、と思う。ネネの言霊は喜びの形状。別に喜ばせるために言ったんじゃないと思ったけれど、なぜだかそれは言えなかった。
夜に満ちる静けさ。落ちつけ。何と返していいかはわからないけれど、何か言葉を発しないとこの場から逃げられない。
 
「ま、まあ、悪くないんじゃないか」
 
結局言えたのはそれだけで、二人の間には沈黙が落ちた。風の音、草のこすれる音、遠くの虫の、声。微かなはずの雑音がやけに大きく感じられて、スバルはその場から早く立ち去ってしまいたい気持ちに駆られる。
ああ、余計なことを言った。何も言わずに車内に帰ればよかったのに。
 
 
 
「……じゃあ、一曲くらいなら、歌ってあげてもいいけど」
 
不意にネネが目を足元に向けながらぽつりと言った。
少し驚いたが、スバルも明後日の方向に視線を向けながら言葉を返す。
 
「……なら、一曲くらいなら、聞いてやってもいい」
 
また落ちる沈黙。大きくなる自然の音。ふっと彼女が笑った。
 
 
 
「素直じゃないわね」
「どっちが」
 
 
 
口元を緩めながらそう憎まれ口を返せば、ふふとネネがまた笑った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2010.1.22 // 紡がれるメゾ・ソプラノのソロ。歌の光が、また天に昇っていく。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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歌はモーツアルトの「恋とはどんなものかしら(Voi che sapete)」から。
スバルが知ってそうな曲っていうと、クラッシックかなあ…と。
 

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