カナリア*

残り香

ノックもせず部屋に入って来るなり、彼女は言った。
 
「ねえバロック、キスしない?」
「却下だ」
 
その聞き慣れた勧誘を、バロックは視線を返しもせずに切って捨てた。声の主、メメンサは不満の声を上げたが、それも聞こえないふりをして仕事を続ける。彼女とのこのやり取りはいつものことだ、向こうも気にはしないだろう。
 
 
「つまんなーい」
 
メメンサは部屋のソファーに身を沈め、持ち込んだジュースに口を付けた。それをちらりと横目で見て、ここは俺の部屋なんだがなと一人ごちる。聞こえたのか聞こえなかったのか、彼女は何の反応も示さなかった。まったく、暇ならこの退屈な書類の処理を手伝ってくれればいいのに。
ちらりとメメンサをに視線を向ける。細く長い腕。組まれた足の脚線美。あのスキルさえなければいい女なのになあと考えた。目を閉じていれば美人だし、細長い手足にくびれからヒップまでの美しい曲線、豊満な胸。身体だけなら男性として心引かれるに申し分ないというのに、あのスキルが全てを阻む。彼女相手に事を構えようものなら、精神エネルギーをごっそり持って行かれてしまう可能性があるからだ。
そういえばかつて彼女に手を出そうとした命知らずが何人かいたが、大体同じ結果に終わった。「私のこと好き?」の次に、「じゃあ精神エネルギーちょうだい」では、続くものも続かないだろう。散っていった勇者達に周りがかける言葉は一つだ。だから止めとけって言ったのに――
 
あのスキルという点でいえば、ある意味彼女は気の毒なのかもしれないと考えたこともある。だってあれではよっぽど酔狂な男か見目に騙されやすい男くらいしか寄ってこない。もし仮に好きな相手ができたとしても、彼女のスキルを嫌ってうまくいかないことだってあるだろう。
しかしそう言ってからかったバロックに彼女はふふと艶やかに笑った。「あら私、本当に欲しいモノはちゃあんと手に入れるのよ」、と――それ以来、彼女への憐憫の情は欠片ほども覚えなくなった。本当にイイ性格をしている。
彼女は美しい華だ。ただし触れると死ぬ毒花だ。いやもしかしたら食人花かもしれない。
 
 
だが、とふと思い立って立ち上がり、バロックはメメンサの座るソファーの背後に移動した。彼女が不思議そうに顔だけ振り向いたので、前向いてろと頭を押さえる。
背後から彼女を見下ろすと、細いうなじが目を引いた。自分たち男のものよりずっと白くて華奢なそれの表面のきめは細やかだ。触れればそこはきっと滑らかで、ざら付きなどないのだろう。力を込めれば簡単に折れてしまいそうにも見えた――まあ見た目だけだろうが。
バロックは思う。
毒花だとしても、花は花だ。
透き通るような白さに吸い寄せられるように、バロックはそこに唇で触れた。ほんの一瞬。けれど触れたことは間違いないとわかるキスをして、彼女が反応するより早くバロックはさっと体を起こした。メメンサが振り向いてこちらを不満げに見る。
 
 
「……バロック」
「いいだろ減るもんでもなし。痕は付けてないし、先に誘ったのはそっちだぜ」
「どうして口じゃないのよ。触れるだけなんてつまんない」
「そっちかよ」
 
 
自身の唇を押さえながらこっちでしょうと言うメメンサの声には聞こえないふりをして、バロックはゆっくりとデスクに戻った。まったく見た目だけはあんなにいい女が傍にいるのに、手を出せないとは歯がゆい。メメンサがキスを求めて近寄ってきたが、手で押しのけて拒否をした。
メメンサが口を尖らせながら言う。
 
「キスさせてくれたっていいじゃない、減るもんじゃないんでしょ」
「お前相手の場合に限り減る。そのスキルが無くなったら相手してやるよ」
「ご冗談。スキルのない私になんて何の用もないくせに」
 
メメンサが肩をすくめながらこちらに背を向けたので、バロックは、おや、と眉を上げた。もし彼女にあのスキルが無かったとしたら、確かにこうして共に青騎士という立場で並び立っていることもなかっただろう。もしかしたら出会ってすらいなかったかもしれない。
 
しかし、何の用もないかというと。
 
 
「……そうでもないさ」
 
 
否定は自分でも不思議なほどするりと口から出た。メメンサが意外そうな表情で振り返り、考えるように視線を上に向ける。それをちらりとだけ見てから、バロックは退屈な書類に視線を戻した。今更照れるような歳でもない、今の言葉の意味をどう取るかは彼女の好きにすればいい。
メメンサがにこりと笑った。
 
 
「ねえバロック」
「なんだ」
「キスしましょ?」
「却下」
 
 
視線を絡めず言葉を交わし、書類の山の一部を掴み取って彼女に押しつける。手伝えと言ったら、メメンサは「やーよう」と言って部屋を出て行った。室内には空になったコップだけが残され、持って行けよとバロックは舌打ちをした。
 
しんと静まり返った空間で、先ほど唇が触れた時の感覚を一人思い返す。ふわりと鼻をくすぐったほのかな甘い香。柔らかな感触。本当に惜しい――とバロックは息をついた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2010.1.29 // 本当にあのスキルさえなければ。…………、なければ?

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