カナリア*

夏祭り Side T

 月を見ていた。
 
 
 ぽっかりと夜空に浮かんだ黄色い球体。満ちきるにはまだ少し早く、光は柔らかくぼんやりと霞んでいた。何を考えるでもなく、ティトォは月を見ていた。共に祭りに行く予定の待ち人は未だ来たらず、することもなく足をぶらつかせる。
 要するに、暇だったのである。
 ふと、戸口に誰かが立った気がして、ティトォはそちらに視線をやる。
 
 そこには可憐な少女が立っていた。
 白地にうっすらとアジサイが描かれた浴衣を着、帯は濃紺。浴衣と同色の鞄に青い下駄を身につけ、髪を肩にかけている。
 こんな客食事の時に見かけたっけ、と思っていると、少女はにっこりと微笑んで頭を下げた。
「お待たせしてすみませんでした」
「え――リュシカ?」
 
 その聞き覚えのある声に、思わず少女を上から下まで再度眺めてしまった。普段と雰囲気が違うのは、髪を下ろしたせいか、はたまた着ている浴衣のせいか。
「ティトォさん」
 名前を呼ばれて心臓がはねた。
 
「あの、変でしたか……?」
「そんなことはないと思うけど?」
 考えるよりも早く、その言葉がついて出た。
 似合ってるよ、とか、可愛いね、とか。この場合は言うべきなんだろうなと思ったのだけれど、本気でそう思ってしまっただけに、気恥ずかしくて口に出すことが出来なかった。
「じゃ、行こうか」
 赤くなった顔を見せたくなくて、ティトォは背を向けて歩き出した。
 
 
   +
 
 
 夏祭り会場は予想通りの混雑だった。右を見ても左を見ても、とにもかくにも人だらけだ。出店と出店の間を流れがゆっくりと動いている。その流れは、川のようだが人なのだった。
「ふわあ、すごいですねえ」
 ぽかんと口を開けながらリュシカが言った。その姿にクスリと微笑んで返す。
「お祭りだしね。町の外からも結構来てるんじゃないかな」
 
 隣町で見かけた顔が、横を通り過ぎていったのだった。確か、食料品店で安くしてくれた主人だ。一度見た顔は忘れない。
 さて何をしようか。
 特に目的があるわけではないし、食事も宿でとっている。予算もあまりないことだし、適当に歩いたら帰ろうか。
 
「ティトォさん、あたし金魚すくいがしたいです」
 唐突にリュシカが言った。よりにもよって金魚すくいか、とティトォは苦笑する。確かに祭りの代表格で、楽しいとは思うけれども、今は旅の途中なのだ。
「金魚すくいだけは止めておきなよ。連れて行けないんだから」
「えー」
 リュシカは不服そうだ。視線を走らせると、いくつか看板が見える。輪投げ、やきそば、クレープ、フライドポテト、そしてスーパーボールすくい。
「ほら、スーパーボールすくいがあるからあっちにしよう」
「でもー」
 
 持って帰ったところで水槽もない上、明日には出発しなければならない。
 スーパーボールの屋台に向かって歩き出すと、しぶしぶながらもリュシカが後ろをついてきた。
 人が多い。気をつけないと――いや気をつけていても――誰かとぶつかりそうになるし、ゆっくりしか進めない。一度はぐれてしまうと会うのは難しいだろう。
 
 
 そこまで考えて振り向くと、すぐ後ろにいたはずのリュシカの姿がない。慌てて探すと、後ろの方で誰かに頭を下げている。ぶつかったのだろうか。
「迷子にならないでよ」
 ティトォは苦笑しながらくぎを刺したが、これでははぐれるのも時間の問題かもしれない。特に彼女の場合は。
 リュシカは頬を膨らませ、ティトォを見上げた。
「小さい子じゃないんだから、大丈夫ですょ」
「……だといいけどね」
「あっどういう意味ですか」
 どういう意味もない。そのままだ。
 
 
 リュシカの言葉には取り合わない事にして財布から300グラスを取り出し、店に座っている人物に渡す。気のよさそうな人で、ニヤニヤと笑いながら薄い紙を張ったプラスチックと、小さなボールを渡してくれた。それをそのままリュシカに回す。
「ティトォさんはやらないんですか?」
「ぼくはいいよ。見てるだけで」
 リュシカは残念そうにしゃがみこむ。浴衣が濡れやしないかとひやひやしたが、その心配は無用だったらしい。
 水面と向かい合って、何やら考えている様子だった。無言で流れるボールを睨みつけている。通り過ぎていく遠くの音。ふと、店主と目が合った。
 
「いざ」
 いざ?
 再びリュシカに視線を戻すと、輪から紙が消えていた。それはもう綺麗さっぱりと。代わりに水滴が店の光を反射している。
「うう……」
「残念だったね」
 再び財布を開きながら言うと、リュシカが振り向いた。
 
「もう一回!」
「はいはい」
 言うと思った。
 水面とにらみ合って無言になるリュシカの手元を見下ろす。また何かを考えているようだった。考える遊びだっただろうかと思いつつ、ティトォは流れるボールを眺める。
 リュシカの持つ輪が水の中に入っていく。ボールの下に入り込み、水中にあるうちは輪の中の紙上にボールがあったが、すくい上げようとしたとたん、紙を突き破って輪だけが空気中に現れた。
「……」
 紙は真ん中で破れていて、何とか右側が残っている程度だった。しかしさっきよりは残っている。リュシカはもう一度その右側を水中に入れてすくい上げたが――紙が破れただけだった。
 
 
「惜しいねえ。ほれ、オマケだ持っていけ」
 見ていた店主が、笑いながら袋を差し出してくる。中にはマーブルの小さな球体が3つ入っており、どうやら何もすくえなかった客のために準備してあったものらしい。リュシカはそれを受け取ると、明るい声を上げた。
 
「わあ、ありがとうございます!」
「どういたしまして」
 彼が「どうだ、彼女の敵討ちってことでやっていかないかい」と声をかけてきたが止めておいた。
 その後は、歩き回りながら食べ物に手を出してみる。
 
 
 まずクレープ。
 カキ氷。
 フライドポテト。
 から揚げ。
 ベビーカステラ。
 りんごあめ。
 
 
 といっても、食べていたのはほとんどリュシカである。あの細い体でどうすれば全部食べられるのか分からない。
 それはともかく、思いのほか時間が過ぎていたようで、のどが渇いてきた。
 タイミングのいい事に、ちょうど右の方でジュースを売っているようだ。紙製のコップにストローが刺してあって、大きなペットボトルが並べてある。ストローが無駄に長いのが気になるが、まあいいだろう。
「リュシカ、ジュース買っていい?」
 隣を歩いていた少女に声をかけてからジュース屋の方に行く。オレンジジュースに始まり、ソーダやコーラにお茶まで何でもござれである。
(何にしようかな)
 甘いものをいくつも食べたので、この上ジュースを飲む気にはなれなかった。お茶にしよう。
 
「リュシカは何にする?」
 何ともなしに振り返って絶句する。リュシカがいない。
「リュシカ?」
 慌てて見回す。やはりいない。
 
 どこへ行ったのだろう。
 もしや、買いに行くと言ったのが聞こえなかったのだろうか。
 迷子になるなと言ったのに。
 いやこの場合は返事も聞かずに買いに来た自分にも非があるのだろうが――。
 
 
「お客さん、何にします?」
 店員がコップを手にとりながら言った。はっとして愛想笑いを店員に向ける。飲み物は後だ。
「あ、すいませんやっぱりいいです」
 
 さっきまでいたのだから、そう遠くには行っていないはずだ。
 右か左か?
 考えて、即座に左を却下する。声をかけたのに気付かなかったのだとしたら、そのまま進んで行ったに違いない。
 ゆっくりな流れに苛立ちを感じながら、きょろきょろと見回して進む。
 リュシカのことだから旅館に帰ってはいないはずだ。そもそも道を覚えているのだろうか?
 ……いや、覚えていまい。
 
 
 浴衣を着ている人をみると視線がそっちにいく。
 双子みたいに浴衣を合わせた2人組に、4人の親子連れ、アベック。
 
 ときおりすみませんと声をかけながら、流れより速度を上げて進む。
 どこにいったのだろう。そう遠くへは行っていないはずだし、この辺りにいると思うのだが。
 
 ふと、見慣れた緑色の髪が目に留まる。10人ほど向こう、お好み焼き屋の前。
 ――いた。
 リュシカはこちらにまだ気付いていない。背を向けているのだから当たり前だろう。
 彼女はしばし立ち止まっていたが、歩き出そうとする。人の合間を抜けつつ、ティトォは慌てて追いかけた、
 
 
「リュシカ!」
 振り返ったその顔が、確かに探していた人物だったのでほっとした。
「ティトォさ……」
 リュシカは目を丸くして、ぱっと下を向いた。それから上目遣いにティトォを睨みつける。
「もうっ、どこ行ってたんですか!?」
「ジュースを買うって言ったんだけど……」
「……そんなの聞いてませんよ」
 
 リュシカは口を尖らせて見上げてきていた。返事を聞かずに行ったのはまずかったらしいが、無事見付かってよかった。
 ほっとして空に目を移すと、月は高さを増していた。一通り回ったことだし、そろそろ帰った方がいいかもしれない。
「今何時くらいかな?」
「え? えーっと……8:50みたいですけど」
 リュシカが向こうに見える公園の時計を見て言った。出てきたのが7:30くらいだから、そろそろ潮時か。
 
 
「明日も早いし戻ろっか」
 そう言うと、リュシカは一度口を開いてから、少し間を置いて言う。
「あのっ、ティトォさん。花火大会があるらしいんですけど行きませんか?」
「花火?」
 言われてみれば、女将さんが出かける前に話してくれた気がする。ここから東に行った所で開かれる花火大会。時間は9時から30分間だと言っていた。
 彼女はそのときいなかったはずだが、リュシカはどこで聞いてきたのだろうか。
 
「うん。折角だし行ってみようか」
 東だったな、とそちらに向けて歩き出そうとすると服を引っ張られた。振り向いてリュシカを見ると、東とは逆の西側を指差して笑顔を浮かべる。
「あっちに地元の人しか知らない穴場があるらしいんですょ」
「穴場?」
「はいです。あっち側の川原なのですょ」
 ティトォは頭にこの辺り一帯の地図を思い浮かべた。花火大会の場所は東に2キロメートル、川は――西に500メートルほど行った所にある。
 
 
「んじゃ、行きますか」
 ティトォはリュシカに手を差し出す。リュシカはティトォと手を見比べてから首を傾げた。口元を緩めてにこりと笑い、肩をすくめて見せた。
「また迷子になったら困るでしょ?」
 リュシカはきょとんとして、それからぱあっと顔を輝かせた。日だまりの中の、向日葵のような顔。
「はい!」
 
 
 触れた手から伝わる感覚が、暖かかった。
 
 
 

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