「……なあ、俺さ、出かける前に約束したよな……？」
無駄な行為だと知りつつも、テッドはリュウにそう言った。大量のあきれと少しの諦めとが混じった息を吐きながら。しかし問題の人物はわざと大きく頷くと、しれっと言ってのける。
「“無茶はしない、遅くなる前に帰る”だろ？ ちゃんと覚えてるぞ」
「覚えてるだけで守る気ゼロだろお前！！」
その言い様にテッドは思わず大声で叫んでしまった。しかし人気のないこんな場所ではただ虚しく響くだけだ。もし彼に“無茶はしない”という気持ちが少しでも、いやカケラでもあるとしたら、今自分たちはこんな山の奥にはいないはずだ。
グレッグミンスターから少し離れた山に行きたいと言うリュウに、テッドは最初難色を示した。話そうものなら怒られるどころか外出禁止をくらうから、グレミオやクレオには内緒。パーンに話せば全部テオに伝わるのでそれもなし。
要するに、こっそり子供二人で出かけようという誘いである。
山どころかグレッグミンスター周辺の草原にもモンスターは出るし、二人ともその山に行ったことはない。普通は危険だから止める――そもそも子供だけでなんて発想自体が出てこないはずだ。
ところが困ったことに、リュウにはテッドの“常識”がこれっぽっちも通じないのである。むしろ危険であることを楽しんでいる風ですらあるので、「危ないから止めよう」などという言葉は煽り文句にしかならない。
「あのな、俺たちがグレッグミンスターのどこにもいないことを気付かれたらどうする？ 相当心配されるぞ」
彼の家人を引き合いに出すと、リュウはちょっと迷うような表情を見せた。彼はこの上なく強引というか傍若無人というか、相当に我の強い性格をしている。けれど家族や彼の棍の師の言うことはそれなりに――表面的に、という部分もあるのだが――素直に従う。さすが武人の一家、家の中の力関係だけはしっかり叩き込まれたらしい。
「気付かれるような時間になる前に帰る！ いっつも出かけてるんだから、日が暮れるまでは誰も探さねえよ。一回くらいいいだろ？ な？」
しかしその場に誰もいない以上、さしたるストッパーにはならなかった。何度も押し問答をした結果、結局テッドが折れてしまった。
「テッドが行かないなら一人で行く」「お前だから誘ったのに」と言われてしまっては、断るのは至難の業だったのだ。二人で出かけるのはまずいが一人で行かれるのはもっと困る。“お前だから”という言葉に、多少心を動かされたというのもあるかもしれない。
しかし今なら思う。
グレミオを呼びに行ってでも、止めればよかった。
「何が無茶はしないだよ！ 最初のモンスターの巣の側もさっき通った急流も、全部無茶苦茶じゃねえかよ！ おまけに、こんな――」
そこでテッドは一度言葉を切って目の前にそびえ立つ断崖を見上げた。ごつごつした岩がむき出しになった、坂というより崖と言った方が正しいほどの急斜面。こともあろうにリュウは「これを登ろう」と誘ってきているのである。
命綱などもちろんない。手すりがあるはずもない。ロッククライミングというほどではないのだろうが、それでも頂上まで辿り着く自信は全くない。大体こんな足場の悪い場所でモンスターに襲われでもしたらひとたまりもないだろう。リュウは同じようにそれを見上げ、不思議そうにこちらを振り返った。
「坂だろ？ ただの」
「どこがだよっ！」
本当に、常識が噛み合わない。
最初通った洞窟の側も、テッドは冷や冷やして仕方がなかった。薄暗い洞窟の奥はモンスターが寝床にしているらしく、何体もの獣が身を寄せ合って眠っていた。起こせば襲われるのは必須、覗きたがるリュウを止めるのに本当に苦労した。
やっとそれから遠ざかれば、今度は広く流れの速い川。落ちれば流され下手をすれば命を落とすことだってあり得たのに、彼は全く気にする様子もなく、むしろ楽しげに川から頭を覗かせた石を伝って渡り出した。
度々のテッドの静止にも知らん顔で、終いには渡り切ってからこちらを振り返って「なんだお前怖いの？」である。全く本当に勘弁してくれと言いたくなる。こっちにはソウルイーターがあるというのに。
「なあリュウ、いい加減にしろよ。約束しただろ、無茶はしないって。これのどこが無茶じゃねえんだよ」
約束、を強調しながらわずかに低い声でそう告げると、リュウはむうとむくれるように口を尖らせた。そろそろ日も傾きかけているし、帰るなら頃合いだ。今から帰れば赤い夕陽が沈み切る前にグレッグミンスターに戻ることができる。いや、それまでに戻らなければならない。こんな岩道を登っていたら日が暮れてしまう。
「だってさあ」
もう一度高い壁を見上げた後、リュウは振り返ってにぃと笑った。
その笑顔は本当に子供のものだ。
生命力に溢れ、怖いものなんて何もないというような、根拠のない自信に満ちた表情。この先に続く未来をこれっぽっちも疑っていない、いや続かないなら続けてやるとさえ言われてしまいそうな気がした。その目からは好奇心ばかりが見え隠れする。それはとても眩しくて。
真夏の太陽でもこんなに強く輝いてはいない――そんな風にさえ、思った。
「俺がいけると思ってる！ だったらそれは無茶なんかじゃねえよ！」
自分が遠い昔に置いてきてしまった子供らしさや未来を信じる気持ち。それらを最大限にまで高めて目の前に並べられたような気がした。闇の紋章を抱えた自分には近づきがたいほど眩しくて、けれど同時にどうしようもなく惹かれてしまう。
「言ってることが無茶苦茶じゃねえかよ……」
羨望と、憧れと。
自分にはないものを全部持っている彼に感じるのはそんな気持ちだった。
「お前が何て言っても俺は行く！ 待ってるなら止めねえけど、上登ったら絶対気持ちいいぜ。お前はどうする？」
そう、きらきらした笑顔で言われてしまっては。
さあ握れと言わんばかりの様子で、手を差し出されてしまっては。
「……ったく、途中でもう無理なんて泣きごと言うなよ？」
「へへん、お前こそ」
「馬鹿にすんな、長年一人旅してた俺の体力見せてやる！」
誘いを蹴るなんてことは、もう出来なかった。
足場はしっかりしていたが一つ一つの岩が大きく、よじ登るのに苦労した。泣き言を吐く余裕すらないくらいへとへとになりながら、二人はどうにか上まで辿り着いた。
そこは見晴らしがよく、山並みがすべて見渡せた。大きいとばかり感じていたグレッグミンスターも一望できてなんだか小さく思えた。通ってきた道が思った以上に遠回りで、もっと楽な道があったじゃないかと二人で笑ってしまった。
赤い夕陽が沈みかける。
遠くに見える草原も、下に広がる森林も、空も岩も砂地も、すべてが紅に染まっていた。今から帰るのかとは考えたくもないほど疲れ切っていたが、この景色なら今までの苦労を考えてもお釣りがくると思った。
「あっなあ、あの丘もよさそうじゃねえ？」
「どれ？」
リュウが不意に一つの盛り上がりを指して言う。この場所よりもう少し街に近く、さして大きくもない丘だった。登ったことはないが、頂上は木も少なく景色はなかなかかもしれない。遊び場として丁度いいとでも思っているのだろう。
「あそこにさ、秘密基地作らねえ？」
「秘密基地ぃー？」
発想がどこまでも子供だ。確か14かそのくらいだったと思うが、本当に今が遊び盛りであるらしい。あきれた声を上げたテッドに、「何だよいいだろ」とリュウは少しむくれた。
「なあ今から行ってみようぜ」
「あほかっ、今度にしろ今度に！」
今からなんて、大急ぎで帰っても怒られる時間になってしまっているのに行けるはずがない。さあ今度はどうやって説き伏せよう――そう身構えたテッドだったが、リュウは一瞬きょとんとして、それからあっさりと引いた。
「いいぜ。じゃあ今日は帰るか」
「……は？」
むしろ楽しげに立ち上がって意気揚々と帰り道を歩き始める。もちろん行きと同じではなく、上から見つけた楽な道だ。意外なまでの素直さに、「え、いいのか？」と思わずテッドは聞き返してしまった。
「だってテッド、“今度”って言った！」
そう言って、本当に嬉しそうに笑うから。
しまったと思いながらも、口元がゆるんでしまうのをテッドは抑えきれなかった。
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テッドって自分に無いものを持っている人に憧れるのかなあ、と書きながら思いました。４主に惹かれたのも、呪いの紋章から逃げようとしない強さが理由…でしたよねたぶん。（４主を見て「俺はもう逃げない」って言ってるんだからそういうことですよね…）
自分に無いものを持っている人を見て、素直にいいなって思える人だったらいいなあ。嫉妬したりするんじゃなくて、その相手を気に入れるっていいですね。
07.12.26