カナリア*

月のウサギ

月見をしようと言い出したのはどちらでもない。きっと空に誘われたのだ。
 
 
 
今日リュウはいつものように同盟軍に遊びに来た。なんとなく帰る気分じゃなかったから、軍主の部屋に泊まっていくことにした。夜も更けてきて、でもまだ眠くなんかなくて、サキの部屋にお菓子と飲み物を持ち込んだ。
 
 
 
“それ”に視線を向けたときに何を話していたのか、もう覚えていない。
どちらかがふと窓の外を見やった。もう片方がその目の先を追った。
 
 
 
窓枠が白く淡く、ぼんやり光っているような気がした。窓枠の陰ではなく、窓を通った光の跡が床に落ちていた。光源自体は二人がいる場所からは見えない。黒の大海に散らばる星々の合間にはきっと揺らめいているのだろうけれど、満ちた丸いそれがきっと自分たちの遙か上で輝いているのだろうけれど。星はもしかしたら見えないかもしれない。夜の女神の力が強すぎて。
 
無言のまま、リュウはサキを見た。彼もほぼ同時にこちらを見返してきた。やっぱりお互いに何も言わなかったけれど、心は一つだったろう。
 
リュウが飲み物を持って立ち上がると、サキはお菓子を手に取った。城の最上階にあるこの部屋から屋根の上に出るのは簡単だ。少し風は冷たかったけれど、二人は上へと足を進める。城の中で一番高い、一番空に近い場所。
 
白い月はとても大きかった。それが空の半分を占めていると思えるほどに――もちろん、そんなことはありえないのだけれど、そう錯覚しそうになるほど、欠けることなく輝く見事な白い球体が空には浮かんでいたのだ。雲も星も少ない。みな今夜の主役の前に霞んでしまっていた。存在感も大きさも、桁が違いすぎる。
 
 
 
「きれいですねえ」
 
サキがぽつりと平凡な感想を言った。もう少し何かないのかと思ったけれど、自分も大した感想は思いつかなかった。二人揃ってロマンチストスキルは全く足りていないらしい。
 
「そうだな」
 
結局リュウはただ同意した。平凡だ。けれどどんな讃辞を並べ続けたところで、今夜の主役を表すには足りなさすぎる――おや、だったら、いっそ全てをまとめたこのシンプルな言葉でいいんじゃないか?
 
腰を下ろしてみたけれど、せっかく持ってきたお菓子にも飲み物にも手をつけずに、ただ景色を見ていた。話もしなかったけれど、特に何かを考えているわけではなかった。月を眺めていると頭の中から音が消えた気がした。思考とは違う何か、静かで綺麗に透き通った何かがそこを満たしていた。
 
 
 
「こういう日って、月のウサギはお祭りでもやってるんですかね」
 
 
隣から発せられた言葉に、つい反応が遅れてしまう。ぼんやりしていたからと言い訳したいところだが、それ以上に思考がついていけなかった。視線だけを隣に座る少年に向けると、彼は特に表情を浮かべるでもなくまっすぐに月を見ていた。別に冗談を言ったわけではないらしい。
 
何と返すべきかリュウは思案した。月にウサギはいない。そんなのは大人が子供に聞かせるお伽話だ。さっきは二人ともロマンチストスキルが足りないと考えたけれど認識を改めよう。彼は頭のてっぺんからつま先まで完全なロマンチストだ。
 
さて何と返せばいい? ここは彼の夢を壊さないためにも、大宴会の最中だからこんなに光が強いんだと話に乗っておくべきだろうか? 子供の夢を壊すのは大人の役目だ。けれど自分はまだもう少し子供の側でありたいから、そんな役は別の誰かに押し付けようか。
 
 
 
「……、あの」
 
沈黙が長すぎたのか、サキが困ったような笑みを浮かべてこちらを見た。
わずかな間。かすかに伏せられる彼の目。
 
「……ほんとは、知ってます」
 
そう言って、彼は透き通ったきれいな笑顔を浮かべた。
 
 
「でも、月にウサギはいるんですよ」
 
 
 
月にウサギはいない、でも、月にウサギはいる。矛盾した言葉の意味を考える。彼は何か、手放したくない何か大切なものを両腕に抱えているような気がした。皆が最初は持っている、けれど次第に失くしていく透明なカケラを。あやふやで掴めない、けれど確かにそこに在る何か。現実を知っても、なお。
 
もう一度認識を改めよう。彼は完全なロマンチストではなくて、ロマンチストを卒業しかかったロマンチストか、もしくはロマンチストでありたいと願うリアリストかのどちらかだろう。どちらかというと前者が近いだろうか? 自分はたぶん、後者のエセロマンチストなんだろうけれど。
 
 
「そうだな」
 
結局リュウはまた、ただ同意を返した。空に輝く球体を見ながら、体の後ろに手をつきながら。
 
会話が途切れる。
静けさが再び頭を満たしていくのを感じて、リュウはそっと目を閉じた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
中村航の「絶対、最強の恋のうた」を読んで、あーこういう雰囲気いいなーと触発されて書いたものです。(まあ本家はもっと素敵なんですけど…! 文章がとても素敵な青春小説でした)
私が青春って言葉を使うときは、大体「どぎまぎ思春期」もしくは「きらきらぎらぎらサンシャイン!」なんですけど、壊しちゃいけない大切なもの、っていう感じもいいなあと思いました。
月にウサギはいないけれど、いればいいな、とは私も思います。
 
 
09.01.02

モバイルバージョンを終了